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小豆島 城山の歴史と春のロマン

2016年11月9日 - 小豆島情報

小豆島 城山の歴史と春のロマン

 

鎌倉時代、承久3年(1221)5月「承久の変」で後鳥羽上皇が管理していた小豆島荘は北条氏に没収され関東から新補地頭として池田荘に須佐美紀伊守が派遣されました。

須佐美家の拠城は池田浜条と室生にまたがる標高113mの鉢伏山、通称城山(現在、地籍の表示は前山)であったと伝えられています。

城山は三都半島の付け根にあり、海中に突出している現在国民宿舎のある沖の鼻に連なっています。

須佐美家の館は室生村にあり、現在須佐美本家の屋敷の付近に”いば(射場)”、みなみじろ(南城)、ふるじろ(古城)等の地名が残っています。

この頃の地頭は鎌倉幕府派遣の身分でしたが、鎌倉幕府末期には池田地域の領主的な存在になったと考えられています(池田町史より)。

 

この小丘の頂上が本丸、浜条側の聖天祠、首(こうべ)神社の建つ辺りが二の丸かと推測され、大手門は室生側にあり、池田馬場からの上り口は搦め手(裏門)であったとされています。

また、伝承では室生のキャンプ場近くの松井と云う地区にある井戸は城山のための井戸で、ここから城へ水を運んだと云われています。

 

南北朝時代に入って暦応2年(1339)佐々木信胤が小豆島に来島し南朝に呼応してからは、須佐美氏もまた信胤の傘下に入ったものと考えられています。

恐らく、信胤は強力な熊野水軍の後ろ盾で小豆島水軍を駆使し瀬戸内海の制海権を有し北朝の物資を奪う活躍をしたと考えられます。(元々、小豆島は熊野三山を中心とする水軍熊野党の勢力下にあり南朝に味方していました。)

 

この城山は桜の名勝として、又 木下恵介監督の映画「二十四の瞳」のロケ地として有名ですが、本丸のあった頂上からは遠く四国の屋島、五剣山、そして女木島、男木島まで眺望が効き、制海権を持っていた南北朝の時代は戦略上重要な役割があったと推測できます。

城山の頂上から戦略を巡らせ、北朝の輸送路を分断した南北朝のロマンの眺めを味わってみてはいかがでしょうか!

しかし、信胤は貞和3年5月3日、北朝の淡路、阿波、讃岐、備前等4か国の大軍を率いた細川掃部輔師氏(かもんのすけもろうじ)に攻め寄せられ1か月の激戦の末6月3日力尽き降参しました。

この城山の桜公園には須佐美氏を祭った城山神社、少し離れての首(こうべ)神社があります。

池田町史によると、この辺りには組合せ式箱型石棺が数多く発見され、古墳群を形成していたと云われ、首神社はこの石棺から出た人骨を奉祀したのではないかと記述されています。

他の説では細川定禅(じょうぜん)に星が城を攻められ信胤は城山まで逃れてきて自害。その首を埋めたとも云われています。

しかし、池田町史の続きに、信胤が細川氏に敗れた後、肥土荘預かり所と云う役職で肥土荘別宮八幡宮(現富丘八幡)の改修、造営を行っていると書かれており、その後、太平記では南朝側の細川清氏に味方して戦ったとも書かれていることから、首神社に信胤の首が祭られていることは無いと思われます。

もしかして、首神社は、星が城の落城の折、敗走して戦死した信胤の武士たちの墓(小豆島全土に散在している城崩れ、戦崩れ など)かも知れません。

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とにもかくにも、城山台公園の歴史ですが、近年、ドラマ『Nのために』のロケ地に使われ名シーンの舞台にもなりました。城山台公園は、国道脇から登るルートと、国民宿舎ふるさと村の散歩道から行くルートの2通りの行き方があります。

おすすめは、国民宿舎から行く散歩道です。丘から眺める景色は海が臨め、とても気持ちの良いルートになります。公衆トイレも完備していますので安心です。

ドラマのために組まれた机と椅子もそのまま残っています。もともとあったモノが古くなったので新しく作ったものです。タイミングが良かったですね。春の桜の時期は桜が舞い散る瞬間を味わえるかも?私は毎年見ていますが飽きることがありません!このドラマのファンの方には、お気に入りの場所になるでしょう。景色も素晴らしいですから。是非、旅行で島にきたら城山台公園に遊びにきてください。

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